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ウィークリーN

第137回2005年7月3日(日)

  足跡28 「変わる保護者の意識」



 
  親のあり方が変わった、とよく言われます。なんでも普通校の先生方は、要求がエスカレートする一部の親の相手で疲れ果てている、という記事がこの間朝日新聞に載っていました。
では、養護学校の親の意識はどうなのでしょうか。
 
 今改めて12年間の養護学校のPTA生活を振り返ると、もしかして一番変わったのは親の意識かもしれない、と思います。

 小学校1年生の時、全員が何かのPTAの部に所属しなければいけない、ということで私は進路部に入りました。(その後、進路・研修部に統合されましたが。 )研修といっても、施設見学を企画したり、進路について考える、といった活動がメインでした。

 その時の高3のお嬢さんを持った、進路部長さんが何気なくおっしゃった言葉は、当時の私にとって、非常に衝撃的でした。
「もし私がガンになったら、子供を殺してから、自分も死ぬわ。」
彼女は、淡々と真顔でそう語り、誰もそれに異を唱えなかったのです。その時の私の気持ちは…(ええー!?なんで?子供は生きたいかも知れないじゃない!)
 
 彼女のお嬢さんは一人っ子、しかもいわゆる重度の寝たきりで、コミュニケーションがとれないタイプの障害児でした。確かに自分が死ねば、とても親のような至れり尽くせりの介護はしてもらえないと思い詰めていたのでしょう。しかし、果たしてそれは死んだ方がマシ、と思うほどのものなのだろうか?私には、大きな疑問でした。今思えばこれは明らかな人権侵害なのでしょうが、以前はこういう認識が暗黙の内に親の中にも多かったような気がします。

 確かにその頃には、障害児を受けとめてくれる社会的インフラはまるで整っていませんでした。ショートステイもホームヘルパーもなく、親たちは体を壊しても子供の介護を続けなければいけなかったのです。だからこそ、絶望に近い母親の想いがそこにあったのでしょう。

 しかしそれでも、何度か直面した養護学校の子供達の死を通して、私が感じた違和感は強くなりました。(第32回 「生と死〜命のはかなさ、せつなさ、いとおしさ 」) 
 親は、神様から信頼され子供を預かり、社会に出すまで養育をする使命を与えられているのだと思います。だから やはり、私たちは与えられた命を大切に、いとおしんで生きなければいけないのだと。

 親同士の連帯、ということに関して言えば長女の学校では、残念ながら昔は「みんな一つになって、子供のために」というようなことはあまり無かった気がします。それどころか小学部の頃は、PTAでのもめ事や派閥みたいなものもあり、うんざりしていました。

 原因の一つには子供の障害の度合いが様々なことがあります。一口に肢体不自由といっても、歩ける子から車いすを操作できる子、寝たきりの子まで本当に様々なのです。そのため家庭での介護の度合いも違い、他の家庭を理解するのが難しかったのではと思います。しかし普通校よりも親が学校に関わる度合いが多く、長いだけに、親同士がうまく交流ができなくなると、かなりなストレスになったものです。

 しかし、今では全般的にお母さん方も明るくなり、PTA帰りにおしゃれなレストランで、楽しくおしゃべりしながらランチしたりの交流が多くなったようです。社会の受け皿が整ってきたこともあるのか、昔のように「私がいなくなったら…」と壮絶に思い詰めるお母さんはいなくなってきているようです。
  お母さん方にそうした精神的余裕があるということは、子供達にとっても非常に良いことだと思うのです。

 
 
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