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WEEKLY “N”|T医師のひとりごと|すずかの気ままにDO!
 
第2回●2003年3月 「 長女が生まれたとき」
 
 

 昭和61年7月に長女は、高知県中村市の病院で在胎8ヶ月・1618gの未熟児で生まれました。その時私は高知県でも数少ない離島である宿毛市沖の島の診療所にいたため、長女が生まれた夜中にすぐ駆けつけることはできませんでした。主治医から「生まれた時呼吸状態が悪く、人工呼吸器をつけている。股関節が変形している可能性がある」など連絡を受け、この時は、さすがに『陸続きであればなあ』と思ったことでした。 翌日海を渡り、面会に行きました。長女は股関節は心配なかったのですが、保育器に入り人工呼吸器、栄養チューブ、各種モニターなどを体につけていました。そんな状態であっても、この時は「足に変形がなくて良かった。未熟児だから人工呼吸器も仕方ないだろう。でもだんだんよくなって、元気に成長して行ってくれるだろう。」と考えていました。やがて長女は 1ヶ月後に退院し、2か月後には、島で家族一緒に暮らせるようになりました。

 ところが、5か月たっても泣くばかりで、首もぐらつき、寝返りをするどころではありません。そこで家内と長女は本土(宿毛)に帰り、集中的に中村市の病院にリハビリに通うことにしました。職場も、家族一緒に住めるようにと周囲の理解をいただき、62年4月から大月町に転勤しました。長女は、週2回のリハビリが嫌で泣くばかりでしたが、それでも寝返りなどもほんの少しできるようになり、「パパ」「ママ」などの言葉も言うようになりました。

 しかし1歳になった頃、脳性麻痺、おまけに10月には筋無力症も合併していることもわかりました。脳性麻痺は千人に一人、筋無力症は10万人に1人と言われていますから、その合併症は1億分の1人という計算になります。
長女の発達が相当遅れているので、障害の可能性も考えていたのですが、当然そのことを認めたくない気持ち(親心)もありました。しかし検査結果を見せられ、診断の結果を医師として受け入れてはいたつもりですが、周囲からみると相当落ち込んでいたようです。診断結果を告げられたとき、ある病院では、障害児の成長なども取り入れて話をしてくれましたが、一方、精密検査に行った別の病院では、ただ冷たく診断結果を告げるだけでした。

 その時は、病院とはこんなものかと思いましたが、やはり診断結果を単に告げるのではなく、その後の育児などのアドバイスも必要なのではないかと思います。本人や家族が必要としているのは単なる診断だけではなく、今後どうすれば良いのかということなのですから。これは、障害児だけではなく、大人の場合も同じだと思います。
 この時の経験が、医療だけでなく障害児(者)の生活について考えるきっかけになりました。当初は「将来、この子はどうなるのだろう。家族はどうなるのだろう。」ということばかりを考え不安になっていました。しかし、子供に障害があってもほんの少しずつ成長したり、同じような立場の障害児のご家族と知りあうことで力づけられ、「よし、この子のためにできることをしよう」という考えに変わっていきました。

 
 

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