第1070回 「血脈貫通」
8月25日 中村 覚
先日、思いもかけない方から「ネットの文章 見ているよ」と声をかけてもらいました。お会いするのも10年以上たつでしょうか。
にも関わらず、気さくにこういう話題から話しかけてもらえたことは、ありがたくもあり、ちょっと気恥ずかしくもありました。
と言うのも、これまで知り合いに「ネットに文章をちょっと書いていますので、お構いない時に見ていただければ~」など1回も言ったことがありません。知っている人に言ったことがない、つまり誰にも言ったことがないのです(笑)
というのも、自分の書く文章は話をする時に比べ、遠回りの表現だと思っていたからです。どう考えても文章より「話すこと」の方が、表情や感情もプラスされ伝わりやすいだろうと。だから遠回りの文章を「ちょっと読んでみて」と言うより、知っている人になら「今度 会った時に、話、するし~」そんな気持ちでした(笑)当初の思いのまま、ズルズルと今に至っています。
でも、思いもよらない方から声をかけてもらえたことは、率直にやっぱり嬉しかったので、今回は力も入ります。これまでずっと温めてきた秘蔵っ子を出す時が来ました。ズバリ!本心から思うことを書きます。
“もう書く事がありません”
これ、ホントなんです。もうないのです(笑)
数年にわたり月に一回、書いてきましたが、もう底をつきました。何も考えずに暮らしているわけではありませんが、形として誰かに読んでもらえるような出来事にいつも出合うわけありません。代表の筒井にも何度か嘆願書も出しました。「もうないのです」と。 すると毎回、こういった内容の沙汰が。
「書くことがある・ない、ではなく 探すのだ!」
このように書く題材に頭を悩ますとは、また別の問題もあります。だいたい文章を書いていると、自分の考えていることや言いたいことが行を重ねる度にズレてくるのです。知らない間にどんどん違う方向へ。途中、読み返して「違うっ!そんなことを書きたいんじゃないっ!」と活を入れますが、集中している時に なにが嬉しくて、一人二役やっているのか? 極めて不自然。こんなのしょっちゅうですよ(笑)
「話す」こととは裏腹に「書く」ことは何故こんなにもぎこちないのか、ずっと疑問でした。
ところが、翻訳業もしている作家さんの本に「どこの国に生まれても、その国の言葉は話せるようになる。しかし、誰でもそれを文章にするためには大なり小なり学ばなくてはならない」ということが書いてありました。
私は話すことも書く事も同等の自己表現だと思い込んでいましたので、ハッとさせられました。書くことがこれだけしどろもどろになるわけです。(笑)
ところで、四字熟語辞典をパラパラとやっておりますと、字面はそれほど難しくないのに、とても仰々しく感じる熟語を見つけました。それが「血脈貫通」です。
どうでしょうか。字数の割に存在感があると思うのですが…。
意味は、身体中に血の流れがよくめぐっていることから転じて、文章の構成が
終始一貫して統一がとれていること、だそうです。
文章を評するのに、よくもまぁ、こんな仰々しい表現をしたものです。
でも それぐらい終始一貫して文章が整っているって、やっぱり難しいんですね。