第1081回 「命日の過ごし方」

11月11日          中村 覚

もう40年以上前のことです。当時、4歳くらいだった私は伯母の家に行けばいつもキャラメルをもらえることが嬉しくて、今でもしっかりと覚えています。
毎回もらう内に、自分から引き出しを開けて勝手に取るようになった始末の悪い子供でしたが、60代だった伯母はよくかわいがってくれました。

私が小学生になると、キャラメルの代わりにぬり絵のノートを買ってくれて、家に行く度に塗っていました。でも、好きなページからちょっと塗っては、次のページまた次のページへと。いつの間にか飽きてしまい、しっかりときれいに塗り上げた記憶がありません。それでいて、ある日 家に行くと新品のぬり絵に替わっています。私が飽きてもう見向きもしなくなったので、新しいのを買ってくれているのです。

そんな伯母がある時、急に病気で倒れ帰らぬ人になりました。知っている人がいなくなるという事は初めてで子供心に悲しく、学校の先生に毎日提出する日記にも書きました。そして知っている人が眠るお墓というのも初めてでした。お墓参りの時には伯母のところだけ、手を合わせる時間も長かったように思います。と言っても数秒ぐらいだったかと。

それからだいぶ時間が流れ、私が30代の時に父が77歳で亡くなりました。当時の男性の平均年齢ぐらいでしたが、「(病気をしなければ)まだまだ長生きできただろうに」と。平均年齢は全然参考にならないという遺族の心情を初めて知りました。

葬式がすんで一週間も経たないある日、朝からの大雨。外を眺めながら、土砂降りの時に「大粒の~」と言うけれど、今日の雨粒はひとまわり大きんじゃないかなあと。親の死というものを真正面から考え込まないようにと、頭の回路がどこかで遮断されたみたいで、しばらくふわふわした感じが続きました。

それから数年後に祖母が92歳で他界します。父方、母方の祖父母の中で、私の知っているのは、この母方の祖母だけでした。年齢を考えると父親の時とは違い、自然な流れとして受け入れる気持ちもありました。まだ初七日も終えていない頃だったと思います。一直線に延びる高速道路を西向けて走っている時、たまたま黒くそびえる山陰に夕陽がじわじわと沈んでいく様を見ました。

消えていくには惜しいような陽の光。車内で聴いていた曲がちょっと物悲しく、それでいて凛としたインストゥルメンタルだったので景色とよく似合い、どこか人の死とも重なる部分があるなぁと。薄情なものかもしれませんが、父親の時とは違い、こんなことを考えるゆとりがあるのです。

それからまた年月も経ち、私も40代半ばになると知り合いの訃報をちょくちょく聞くようになりました。つまるところ、いつかは自分です。そんなことを思うと人はどこまでいっても未完成で、最後を迎える時、当人の心情に関わらず完成なのかなぁと。

以前、ある映画監督が「これまで撮った映画でどれが一番ですか?」というインタビューに対して「これから撮る映画だ」と。実際に出来上がった時の満足度や周りからの評価は別として、作り手はずっとこの気持ちを持ち続けるのでしょう。でも、だからと言って次回作が必ず出来るという保証はありません。

これを考えると職業や立場に関わらず、みんな一緒ではないかと。だから亡くなった人は生き切った人と思いたい。そうじゃなかったとしても自分の親しかった人に関してはそう思いたい。かなり一方的ですが、最近はそんなふうに考えるようになりました。

来年からは父親の命日の過ごし方を変えて、ちょっと楽しい?ぐらいでも良いんじゃないかなと。毎年、どうせ慎んだ気持ちでその日を過ごしているわけでもありませんし。生きている人の誕生日を祝う時のあの雰囲気を、若干 命日にも振り分けてみる。不謹慎かなぁ。でも、なんとなく過ごすぐらいなら、こっちの方が良いかと。

好き勝手書いていますが、身内のことなのでよしとしてください。亡くなって10年以上経つからこその、今の気持ちです。