第1141回 「89歳、いざ 登城!」
1月11日
昨年秋からは お陰様で本当に多忙でした。89歳の母が10月頃から「あんたと一緒に高知城に上りたい」と言っていたのですが、やっと時間がとれたのは年末でした。
そこで、母と一緒に高知城へ。
母は50歳まで、旧土佐電鉄でバスガイドの先生をしていました。
現役の頃には春に新人ガイドを連れて、日に2回午前と午後 高知城に上がって教えていたとか。「高知城のガイドを、あんたに聴かせたい」。私が仕事柄、そういうことに興味関心があるだろうと思っているようです。まあ確かに、たまたま観光ボランティアガイドさんの研修もしましたが。
とは言え、もう背中も曲がっていて長距離歩くのも難しくなっているので、
「お母さん、お城へ上がるのは難しいんじゃない?」と聞くと
「大丈夫!」
「階段は158段あるし、天守閣の階段は段が高いよ」
「そんなこと、わかっちゅう。大丈夫、問題ない!」
人並外れて頑固な母は、言い出したら聞きません。でもまあ、天守閣の手前の二の丸まで上がったら音を上げるんじゃないかと思い、渋々連れて行くことに。
お城に着いてから「あ、杖を持ってきたら良かった」に、一気につのる不安(笑)
私の腕に捕まって、ゆっくりと階段を上がっていきます。
追手門の所では「この天守閣と追手門が一緒の画角で見えるのは、全国でもほとんどない」とか、階段を上りつつ「この雨水を流すための石樋(どい)は~」「高知城の石段の特徴は~」「この石碑は~」と昔取った杵柄(きねづか)で案内していきます。その顔は実に楽しそうでした。
二の丸まで上がった時も「疲れてない、大丈夫!」と本丸に歩いて行きます。
仕方ない。あきらめて、本丸御殿(壊徳館)に入ります。
こんな感じで柵や私にすがってゆっくりと、でしたが解説していきました。欄間の打ち分け波の模様を見て、「あれは浜幸(高知の老舗菓子店)が、包装紙のデザインに使うちゅうわねえ。まぁ今やったらありえんけど」とか「この板戸はヒノキの一枚板を使うちゅう。これくらいの大木があったということよねえ」など、絶好調です(笑)
さぁ、いよいよ心配な天守閣の階段です。外観は4重ですが、内部は3層6階建て。
「この高い段やき、お母さん無理じゃない?」
「大丈夫、大丈夫!懐かしいし、もう最後やき。90になるとき、最後に上がったわえという話を後々したいき」
もう、思いが先走って止められません…手すりにすがって、慎重に段を上がります。
すぐ下に私も付いて、サポートします。
「どうしてこんなに天守閣の階段って角度が急なんだろう…」とぼやくと
「そりゃあ、刀が当たって邪魔にならんようによね」
と即答。すごく納得しました!なるほど~。
(これ、上がりよりも下りが大変なんじゃ?どうしよう…)という私の心配をよそに、なんとか無事に上がり終えた母。
懐かしそうに高知市内を見下ろして、語り始めます。
「この高欄を巡らせているのが、高知城の美しさよね…」
そして、ここからが真骨頂。高知市の地形を指さしながら
「鏡川、江ノ口川、久万川の川の中にあったから『河中』(こうち)と山内一豊が命名したけど、水害に悩まされて竹林寺の2代目の和尚さんが高い智恵の『高智』とした。ところがいつのまにやら『日』がなくなって『高知』になった。どういて?」
「土佐人は酒飲みやき、毎日飲んだくれて日を忘れたがよ」という話には笑いました。
紀貫之の時代からの解説を地形を指さしながらしてくれたのですが、確かにそれは今まで聞いたことのない情報でした。
母はその昔、当時の土佐史談会や高知大学の教授に色々と教えを請い、調べては バスガイドの原稿を何十年も書いてしゃべっていたのです。
やっぱり昔取った杵柄はすごかったと納得しましたし、よく覚えているものです。あっぱれ。
さて、降りる段。実は階段の途中で白髪のボランティアガイドさんが下りるのを見ていると、横を向いて下りていたので、これだ!と思いました。確かに、足の運びが楽なんです。
この写真だけ見るとスイスイ下りてそうですが、実際は私が付き添ってゆっくりと下り、最後の段を撮影しました(笑)ともかく、無事に下りられて何よりでしたが、私はこれでドッと疲れが出てしまいました…ちなみに母は、翌日も「疲れてない」とケロッとしていました。恐るべし、昭和10年生まれ!
それにしても「精神が肉体を凌駕する」と言いますが、どうしてもやりたいことがあると89歳でもこんなことができるんだ!ということが何よりも人生の学びになりました。
今後の私の人生にも、影響を与えそうです。