第1148回 「どのように生きるのか」

2月28日

凍えるほど寒い夜、友人の妹さんのお通夜に出かけました。
葬儀とは、その人がどのように生きたのかを偲ぶ場だと思います。友人が喪主を務めたのですが、会場には音楽講師をなさっていた彼女の写真・楽譜・服や小物が飾られ、長年指導した少年少女合唱団の合唱もあり、愛情に溢れていました。「私も、こんな温かなお葬式ができればいいな」と一緒に出席した次女に思いを伝えました。

これから、どのように生きるのか。
昨年読んだ本をきっかけに60歳半ばにして人生をふり返り、過去を糧にこれからどう生きるのかを時々考えます。特に10代~20代の頃を顧みると至らなさゆえ、申し訳なさに身の置き所がないことも少なからずあります。

若い頃は、自分の目で見える光景しか捉えられませんでした。年を重ねると、カメラを少しずつ後ろに引いていくように、周囲の人や状況が見えて来ます。それと共に、色々なことに気づかされます。あの時はこうだったなあ、今ならこうすれば少しはましだろうか、とか。過去をふり返ることで、未来をより良くしたいという思いが強くなります。

え、その年で未来?とおかしいかもしれませんが、そう長くないからこそ、より良い未来を自分で拓きたい、と思うのです。欲張りでしょうか(笑)
改めて思うのは、

・人として、良い生き方をしたい

「人として、良い生き方」とは?様々な答えがあるでしょうが、何のために生まれてきたのか。答えの1つとして最近は「人格を磨いて内面を豊かにするため」、違う言葉で言えば「霊格を高めるため」ではないかと思っています。では、どう高めるのか?というと

・誠実に生きたい

誠実とは 嘘・偽りがなく、真面目なこと。真心が感じられるさま、とあります。真面目には生きているつもりですが、仕事柄 言葉を多く出してしまう傾向があります。巧言令色少なし仁、とならないよう 心を込めたいと改めて思います。

・人に優しくありたい

小学生みたいですが、心のきれいな人になりたいのです。第1109回「それでも人生には意味がある」にも書きましたが、人は誰でも生まれながらに「誰かのために何か良いことをしたい」という気持ちを持っています。アウシュビッツから生き延びた精神科医、ヴィクトール・フランクルはその気持ちを「意味への意思」と名付けました。「意味への意思」で、誰かのためになることをすると人は自然と嬉しくなり、気持ちが満たされます。

そしてやなせたかし先生の言葉なら、「人生は喜ばせごっこ」となるでしょう。純粋に、あなたを喜ばせたい。時にそれは思い込みの「ごっこ」かもしれないけれど…。

今まで生きてきた人生も、今では全部意味があると感じています。
すべて生まれる前に、自分で選んで決めてきたらしいんです。
いくつで誰と出会い、何をして、どう生きるのか。この年齢になり ふり返って考えると、とても納得します。同じ相手でも、役割が変わることもあるかもしれませんね。出会いには意味があり、それを良いものにしていくかは自分次第!

たとえば久しぶりに会った人とどのように過ごすのか。懐かしい思い出話ができるのはとても幸せなことです。脳細胞だって活性化するはず(笑)昔 大ゲンカしたことさえもみんなであれこれ言って、若気の至りを笑い合える今があるなんて「いいなあ~」とつくづく思います。それはある意味、神様からもらえるごほうびかもしれません。

そして、障害のある長女との暮らし。もちろん、子供とのご縁も運命。子供は親を選んで生まれてくると今は信じているので、「選んでよかった」と思ってもらえるように生きたいと思っています。確かに大変なことは人より多いかもしれませんが、私は決して何かのペナルティーを受けているわけではなく、その分、沢山の喜びや気づきも与えられているので、それも幸せなことなんです。

若い時の光溢れるきらめきもいいですが、この年齢だからこその ひなたぼっこのような温もりも、またいい。だから仕事に限らず、今までの経験を活かして誰かをサポートすることが、今からの喜びや楽しみだと思っています。それが人生後半での、1つの目的や使命なのではとも。使命と感じられたらやる気も出て達成感にもつながるから、よりラッキー!思ったもん勝ちです(笑)

人生で、せっかくいただいたご縁。
「喜ばせごっこ」で、お互いに高め合うことができるといいですね。