第846回 「新聞の葬式と土佐人の気概」

4月11日

突然ですが、この4月から高知新聞で「新聞と読者委員」を拝命することになりました。
今年の初めにお話を頂いたとき、「え?なんで私が」と戸惑ったのですが、ある記者さんのご推薦を頂いたことを伺い「それは頑張らなければ」という気持ちに変わりました。ご期待を寄せて頂けるのは、本当にありがたいことです。

まずは春の新聞週間に合わせて、新聞に対する思いを語ってくださいとの原稿をご依頼頂きました。文量は1200字、原稿用紙3枚分です。軸が決まれば多分書けると思うのですが、何を書こうか…ずっと迷っていました。そんな時、「そうだ、あれだ!」とひらめいたものが「新聞の葬式」です。

庶民が政治参加を求めたのが自由民権運動ですが、その最盛期が明治15年。明治政府は当時、この運動の盛り上がりを恐れ条例で厳しく取り締まり、自由民権運動に大打撃を与えました。民権派の新聞は何度も発行停止処分を受け、新聞の編集長や印刷長も処分されたそうです。

決定打となったのは明治15年7月14日、「欽定憲法ノ不善ナルヲ論ス」との記事で、ついに高知新聞は発行禁止処分となりました。人間で言うなら死刑宣告です。しかし、それに負ける高知県民ではありませんでした。それに対抗して出された新聞広告がすごい。

「我ガ愛友ナル高知新聞ハ一昨十四日午後九時絶命候ニ付本日午後一時吊式執行仕候間愛顧ノ諸君ハ來會アランヲ乞」
親愛なる高知新聞は一昨日14日の午後9時に絶命した。よって本日午後1時に葬式を行うので、ごひいきの皆さんは来て欲しい、という意味でしょう。高知自由新聞社は発行停止処分を受けた時の身代わり新聞です。高知の民権派は「言論・集会の自由」を封じようとする弾圧に抗議するため、前代未聞の「新聞の葬式」を行うことにしたのです。

そして明治15年7月16日、日本初の新聞の葬式が行われました。(ちなみに仏式だったそうです)発禁号の新聞を棺に入れ、7月の暑い最中に忌中笠の壮士、提灯、位牌、僧侶、記者、愛読者が、高知新聞社のある本町から五台山まで葬列を行いました。直線距離でさえ4kmはあります。その気概もすごいですが、もっとすごいのはそれに5千人もの高知県民が参列したことです。テレビニュースもない時代に、朝、新聞を読んでその当日に5千人も集まるなんて!それだけ、自由民権を求める県民の思いは熱かったのでしょう。

この後、代わって発行された高知自由新聞も7月21日に発行禁止になり、2回目の新聞葬を行ったのですが、会葬者はなんと倍の1万人にも上ったそうです。今でも1万人のイベントなんて、当日に呼びかけてそうそうはできませんよね。

五台山には上り口に、「新聞の葬式」の記念碑が建っています。
1996年7月16日に高知新聞社や高知市立自由民権記念館などが建てたようです。

20年あまりの年月で風雨に洗われ、文字が薄くなっているのがいかにも残念です。

当時の庶民の識字率は男性が6割、女性が4割。つまり半数は新聞が読めなかったのです。と言うことは、情報を得るためにはそこに人が介在したということです。今は個人で動く個人型の社会ですが、当時はチーム型の社会と言え、だからこそ、多くの民衆が新聞葬に参列したのでしょう。

取り締まりや政府の弾圧をも恐れずに行動した明治の土佐人の不屈の闘志と気概、民衆の熱気には、胸を打たれました。自分もこうありたい、と強く思いました。