第856回 「ジョンマン・スピリッツ」
6月22日
今、高知では世界を股にかけ波瀾万丈の生涯を送ったジョン万次郎を大河ドラマに!という気運が高まっています。土佐清水市にあるジョン万次郎資料館もリニューアルされたということで、生家と資料館を訪ねてみました。
この日はあいにくの雨。初めて訪れた土佐清水市中浜は、足摺岬の西北5kmくらいの場所にあります。高知市からは車で3時間ほどの、小さな漁村です。
生家は、この「中浜万次郎生家」の看板が立っていないと、まずわかりません。ここからは矢印の通りに、細い路地を抜けて100mほど北に歩きます。
着きました。かやぶき屋根の万次郎生家の復元家屋です。
当時、貧しかった漁師の家はこういう感じだったのでしょうね。
そうそう、昔の家って土間があってこんなだったよなあと、雨音を聞きながら懐かしく思えました。とても雰囲気があります。
さて、せっかくなので車で15分ほどの「ジョン万次郎資料館」にも行ってみましょう。以前の展示とは、かなり変わっていました。
漁師の次男だった万次郎は9歳の時に父を亡くし、天保12年(1841)14歳の時 漁に出て遭難し、九死に一生を得て現在の鳥島に漂着。143日間も無人島で過酷なサバイバル生活をし、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されました。
ウィリアム・ホイットフィールド船長との出会いにより、日本人として初めてアメリカに渡りジョン・マンと呼ばれ、アメリカの英語・数学・航海術・造船技術など高度な教育を受けさせてもらえたのは幸運でした。
その後捕鯨船の副船長として大活躍していましたが、母に会いたい一心でゴールドラッシュの金鉱堀で わずか70日余りで600ドル貯め、嘉永4年(1851)に厳しい鎖国の中を帰国しました。
琉球、薩摩、長崎、土佐藩で2年近くの取り調べの後、やっとの思いで母と再会。これは万次郎の帰国の足跡を矢印で書いているのですが、あの時代にこんなにもグローバルに動き回った日本人はいなかったですからねえ。
その後、江戸城下の旗本に抜擢され、中浜万次郎と名乗ります。その頃幕府はペリー来航により、アメリカの情報を必要としていた背景があるでしょう。
万延元年(1860年)万次郎は通訳として、勝海舟や福沢諭吉らと共に咸臨丸で渡米しました。元船乗りですから、事実上の艦長として大活躍したそうです。
明治になると今の東京大学の前身開成学校で教壇に立つなど、明治維新前後の激動期に日米交流の架け橋となったスケールの大きさが魅力の人です。
万次郎直筆のアルファベットの複製。Zの後にもう一字あるのは、何だと思いますか?「&」なんです。「アン」と書かれています。
これも面白かった!「ナンブア」number:数、「ボック」book:本はなんとなくわかりますね。では「グーリーデイ シャア」は?
Good day sir. 和訳が傑作ですよ!「よきひでござる。」時代を感じます。(笑)
運命に翻弄されたかに見える万次郎こそ、まさに神の采配を感じざるを得ません。時間をかけていろいろな展示を見て回り、まるで「ジョン万次郎」という一本の映画を見終わった気分になりました。展示の最後には・・・
この一言が、ズーンと胸に迫ってきました。
「決してあきらめてはいけない」。
世界中でサバイバル生活を送った、万次郎らしい一言ですね。そしてそれが、運命を自分でプラスに転換した彼自身の力ではなかったかと思います。
外に出ると、雨が一転、良いお天気に!
太平洋に続く海と空の青が、目に飛び込んできました。
資料館近くの「万次郎少年像」は必見です。背景は波しぶきでしょうか。すごい躍動感の銅像で、見る方向により印象が違います。これは左横からで、右の先頭が万次郎です。
「決してあきらめてはいけない」。
不撓不屈の精神は、ジョンマン・スピリッツとも言われます。そうした万次郎の思いと生き方は、今も多くの人を勇気づけてくれています。