第867回 「高知追手前高校④ 追手前博物館」
9月5日
近代建築、時計台、元貴賓室と続いた追手前高校シリーズ。
最終回は、追手前高校の多くの貴重な史料などをご紹介します。
追手前高校は昨年(2018年)、学校創立140周年を迎えました。
その記念に校舎中央階段に、学校所有の貴重な資料などが約80点公開展示されています。「創立以来代々守り継がれてきた歴史的学校資料に触れ、過去に思いをはせ誇りに思い、未来への力に変えて欲しい」として校友会が企画した、学校博物館です。
「ようこそ創立140周年の歴史空間へ」としてメッセージが掲げられたその上には、旧講堂の照明と旧校旗の「六稜星(りくりょうせい)」のレリーフが。六角の星ですね。昭和6年(1931)頃のものです。
明治期からの集合写真や校舎の図面、本などがたくさん並べられています。面白いのは、写真の額縁は古い引き出しをリユースしていること。いい味を出しています。
これは、国内で最も古いと言われる校旗の現物です。明治20年に作られたもので、六稜星の中央の星形は、金糸で刺繍されています。「生徒たちが高い理想を持って広く世界に羽ばたくこと、天下一の理想を目指す」との思いが込められていたとか。
現在の校章(右)になったのは、昭和24年(1949)です。高知県立高知追手前高等学校に改称されたことから校章のデザインコンクールが行われ、追手前のシンボルのイチョウの葉6枚に置き換えて「高」の字を配した生徒の案が採用されました。
これは明治22年(1889)の歴史の試験問題です。なんと英語で出題され、筆書きの英語の筆記体の質問が並んでいます。当時は印刷技術もなかった上に、英語で原書を使った授業が行われていたのでしょう。歴史なのに英語で読み書きができないと試験に合格できないなんて、ハイレベル過ぎ。ビックリです。
この他、直木賞作家の田岡典夫が書いた、文芸部からの手紙への返信(昭和52年・1977)や代表作の直筆原稿、物理学者寺田寅彦の明治期の在学時の写真など、貴重な史料が間近に見られます。幸せだなあ、今の生徒さんたち。
本館の校史資料室にて。100期の卒業生でもある美術の井上香二先生は、校友会の事務局として精力的に活動なさっています。手にしているのは、やはり英語で書かれた明治期の試験問題。「これを今の生徒たちに見せてあげたい」という思いが、学校博物館につながったそうです。
校友会には、明治期からの貴重な書類が沢山残っています。明治時代の学校規則、日直日誌、試験成績表から大正時代の教務日誌、昭和の宿直日誌など。卒業アルバムも多くありました。
学校博物館のある中央階段を2階へ上ると、大きな手洗い場があります。
実はここにひっそりと追手前のマークが刻印されている物があるのです。
それは…
流しの排水口のフタに、小さく時計台の刻印が!(大きくしてご覧下さい)
大きさは、1cmもないと思いますし、もうすり切れて見えない物もありますが、
なんだか「隠れミッキー」を見つけたような気分♪
こちらは新体育館にできた、新たな校史資料室です。
「中浜万次郎漂流記」や「ズーフ・ハルマ」などの貴重な資料があって驚きました。「ズーフ・ハルマ」は江戸時代後期に編纂された、オランダ語の和訳辞典です。全12巻の内2巻が紛失したらしいですが、そろっていれば1億円は下らないとか。現物は現在、龍馬歴史館に保管してもらっているそうです。
そして本館屋上の東の端にポツンとあるこの建物、何かわかりますか?
柱は大理石、上は砂岩のレンガで作られています。
奉安殿(ほうあんでん)と言い、戦前の日本で天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語などが納められていた建物です。多くは敗戦後に撤去されたらしく、私は在校時にはまったく気づきませんでした。
当初は2階に作る計画だったそうですが、校舎は3階建てのため「その上を人が通ることはまかりならん」ということで、屋上に設置されたと伺いました。
当時は登下校時や単に前を通過する際にも服装を正してから最敬礼するように決められていたそうで、空襲や火災の時には御真影を守ろうとして、校長などが殉職したこともあったそうです。
敗戦時、GHQの指導で、美術教員がノミで菊のご紋を削ったのだそうです。その痕跡が見られました。
扉は金庫のようなダイヤルが両側に付いていたようです。
現在は空っぽですが、当時はこの中に…
この金庫が鎮座していたようです。この中にご真影や教育勅語を保管していたのでしょう。扉の上部両側には、六稜星が付いています。この六稜星はあちこちにモチーフとして使われていたのですね。
勾玉の覆いをずらすと、鍵穴がのぞきます。
本当に凝った造りですね。
私が卒業生だということを割り引いても、細部まで凝りに凝った追手前の校舎建築は文化財だとつくづく感じ、ご紹介させて頂きました。長文をお読み下さり、ありがとうございました。