第1017回 「知られざる特攻艇【震洋】」
8月6日 中村 覚
出張で土佐清水市を訪れた際、市内を何気なく車で走っている時です。道の突き当たりの山肌部分に、ひっそりとたたずむ看板を見つけました。
『旧海軍震洋艇格納壕跡地』と書いてあり、この先だと赤い矢印で示しています。「旧日本軍の何かが あるのかなぁ」よくわからないまま、矢印に従い進みます。
すぐに右側に海が広がります。この日もうだるような暑さですが、炎天下の元、広がる海はきれいです。~と言って、特に変わった様子もなく…。すると
山側に大きな穴(洞窟)が間隔を置いていくつも並んでいました。穴の高さは大人がゆうにすっぽり入れるほどです。既に入口が土でかなりふさがっているものや、「あぶないので はいってはいけません!!」と書かれたプレートと共にロープが張られているものなど。
更に車を奥に進めると、案内看板と石碑があります。
案内看板には、「旧海軍震洋特攻隊基地跡」とあり、太平洋戦争末期、この地に海軍の特攻兵器「震洋艇」の基地があったことが書かれています。
先ほどの洞窟はこの「震洋艇」を格納していた壕なのです。壕は高さ、幅とも3.5m。奥行きは20~30m。当時、15基、掘られたそうです。
そして この「震洋艇」は全長6.5m。幅2mの耐水べニヤ2枚張りで造られたボートです。先端に250㎏の爆薬を積んで敵艦隊に体当たりする自爆特攻兵器だったのです。「震洋」という名前は「太平洋を震撼させる」という意味に由来します。悪化の一途をたどる戦局をなんとか打開したいという切実な思いだったのでしょう。
これは後で調べてわかったことなのですが、大戦末期の物資が不足する状況でもべニヤ板を張り合わせた船体というのは量産が可能だったようで、約6000艇が造られ、本土防衛のために広く配備されたそうです。その中の1つが、ここ土佐市清水市の越(こえ)なのです。
石碑には、越(こえ)湾に配置された特別部隊の全隊員171名中、艇搭乗員48名は主に17歳の少年達であったことが刻まれています。戦況のひっ迫につれ、再三の出撃命令が出されるものの、出撃には至らず終戦を迎え、若い命が九死に一生を得たことが書かれています。
土佐清水市のホームページに「私たちのまちにも特攻基地があった」というパンフレットの案内があり、ダウンロードも可能です。より詳しく書かれていて、私の写真ではわかりにくい石碑の全文も掲載されています。ご興味のある方はぜひ。
看板と石碑を読み終えた後は、さっき見たばかりの洞窟に対する意識も違ってきます。今度は資料用にアップで写真を撮るために壕の真ん前へ。
中から冷たい風が吹いてきます。まだ7月でしたが、異様な暑さは既に盛りを迎え、先ほどから吹き出る汗が止まりません。
本来ならこの風を涼しく心地良いと感じるはずなのですが、この地の意味合いを考えるとそうは思えません。 戦争を知らない世代の私でも、ある種の慎みを持って洞窟の前に立ったつもりです。
実は、この写真を撮った後、土佐清水市の図書館に行き、この「震洋艇」に関する本を紹介してもらいました。それがこちらです。
水上特攻「震洋艇」の記録 「海の墓標」
著者である二階堂清風さんは、昭和20年(1945年)、土佐清水の越(こえ)で震洋艇の搭乗員として、その任務についた方でした。内容は戦争体験はもちろんですが、当時の風潮や地域のこと、そして昭和48年に再度、越を訪れた際の様子についても書かれています。
昔とは違い 開発されて様変わりしている地域や、そこに住む人の変化に驚き、時の流れに思いを馳せます。既に時代は新しい世代へと変わっていたのです。しかしそれでも、ご自身の中にだけ今もある万感の思いを胸に…。
私はこういった部分の描写に、なにか揺さぶりをかけられた思いになり、「震洋艇」についてより興味を持ったというのが正直なところです。
「特攻」と聞けば、航空機(零戦)や回天(人間魚雷)を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。私もすぐに浮かぶのは零戦。その次に(よくは知らないけど)回天…。ですから「震洋艇」については恥ずかしながら何一つ知りませんでした。
「零戦」「回天」「震洋艇」は同じ特攻兵器でありながら、後世の私たちの持つ認識に大きな差があり過ぎると思います。
ちなみに製造数 は、
「零戦」 =約1万機
「震洋艇」=約6000艇
「回天」 =約400基
戦争を知らない世代が、ただ数値を並べて戦中のことを知ったふうに語るのは「違う」と思います。しかし同じ高知県に住みながら初めて知った震洋艇の事実。風化していく戦争を考える上で何かの参考にして頂けたらと思います。