―生きてた。動いてる。
当たり前のことがものすごく嬉しく、感動した。
体の色は元気なバラ色だったが、鼻に肺呼吸を助けるパイプと、腕にブドウ糖の点滴。採血したという足が、赤黒くふくれていた。心音モニターなどもあり、体中に管が通され、見るからに痛々しい。しかもパイプのせいで、小さな顔は絆創膏で隠れて見えない。
「 最初、左足が逆に曲がってたのですが、今はちゃんと治ってるので大丈夫でしょう。肺機能障害の方は、明日あさってが山場です」という説明を聞きながら、私は本当に助かっていたのがただ嬉しく、ありがたく、泣くばかりだった。
「手を入れてさわっていいですよ」と看護婦さんに言われ、恐る恐る左手で右手の平に触れてみる。ちっちゃいけど、あったかい。生きているんだ。実感した。この子が昨日まで私のお腹を蹴っていたんだと思うと、何だか不思議な気がした。
この日は金曜日だった。夫は沖の島診療所にいたので、翌日海を渡って来てくれた。担当の先生とレントゲンを見て、なにやら難しい話をしていたが、実際涼歌を見て安心したようだった。その後幸い、肺機能障害はクリアでき、管も一つずつ取れていき、涼歌は薄紙をはがすように少しずつ良くなっていった。
1週間たち、私は先に退院し、中村市内のホテルに仮住まい。毎日、母乳を持っては病院に通った。
ある日、隣の保育器に1700グラムの赤ちゃんが入る。同じように鼻に酸素チューブをつけているが、100グラム違うと一回り違って大きく見える。いいなあ…と、うらやましく思う。
ところが、翌日行くと隣はがらんとしていた。その保育器はなかった。肺機能不全で赤ちゃんは亡くなったのだ。心が冷えた。明日は我が身かもしれないと思うと、とうてい人ごととは思えなかった。気丈に家族に連絡の指示をする若いお母さんを見かけ、涙で廊下がゆがんだ。
産婦人科病棟には、赤ちゃんの出生に湧く喜びと、赤ちゃんを亡くす痛ましい哀しみの両方が渦巻いていた。わずかの間に、赤ちゃんを亡くすお母さんの哀しみを何度か見聞きした。思えば胎児・新生児でひっそりと死んでいく子供たちは、まだまだ多いのだ。この子にはその分まで、一生懸命生きていって欲しいと願わずにはいられなかった。
3週間たった頃、涼歌は1800グラムを越え、初めて抱くことができた。こわごわ、おくるみごと抱いてみる。夫は笑って「軽いやろ」と言ったけれど、腕に感じた確かな重みは、決して軽いとは思えなかった。
それは確かな「いのちの重み」だった。 |