これから妊娠なさる方にも、是非これはお勧めします。この記録は2人目以降の出産にも、大いに役立つのです。他でもない自分の妊娠記録ですから「この時に腹囲が□cmあった」など、とても参考になりますよ。出産ってあんなに大変なことにもかかわらず、終わったらその痛みをケロッと忘れちゃうんですよね。これは神様の采配でしょうね。覚えていたら、2人目以降を生もうという気にならないでしょうから。で、記録を見ると改めてその時の注意事項などを思い出せるという訳です。
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さて、当時の画期的な発明だった冷凍母乳パックを下げて病院に通う生活も1か月半過ぎて、やっと涼歌が退院できることになった。当時の生活拠点は沖の島だったので島に帰り、夜も眠らない赤ちゃんを相手に、睡眠時間3時間の日々。つくづく思ったのは、学生時代の試験期間は◯日まで、と分かっていたから睡眠時間を削っても大丈夫だったのだということ。赤ちゃんとの格闘はいつ終わるともしれない過酷なもので、フラフラになったものだった。
そうこうしているうちに5か月になった頃、通っていた中村市のリハビリの先生から「状態が良くないね」と難しい顔をされ、「筋の緊張が低いし、首もぐらぐらだし…しばらく入院した方がいい」と言われてしまった。
「そ、それだけはお助けを。毎日リハビリに通いますから」ということで、宿毛市のアパートに別居することに。その頃75歳を過ぎていた私の祖母が同居して、世話を手伝ってくれた。祖母は70歳まで現役で看護婦をしていたので、心強い味方だった。
年が明け、別居生活を解消するため、夫は大月町に転勤した。2日に1回、朝50分かけて中村の病院に出かけ、予約番号を取り、お昼を四万十川の河原で食べ、リハビリを受け、スーパーで買い物をして帰り、一日が終わる、という生活。涼歌は未熟児のため標準よりも小さいながら、笑ったり、「ママ」「パパ」とか言うようになった。ただ、なかなか座ったり立ったりはできなかったのだが、私は「2か月早く生まれたんだもの、2か月遅れても仕方がない」と呑気に構えていた。
7月、もうすぐ1歳を迎えるという頃、久しぶりに受診した小児科の先生から、衝撃の告知を受けた。
「これだけリハビリに通ってるのに運動が伸びないのは、未熟児のせいではないですね。一度、医大の方に行って検査してもらってください」
私は突然のことに、(?)とあまり事情がよく飲み込めなかった。そして先生が言った次の言葉。
「ハッキリ言って、知的障害の疑いがあります」
目の前がまっ白になった。 出産の時の、あの緊張が私を襲う。
頭の中に、キーンという金属音が響いた。
まさか…!?表情はこんなに自然なのに。確かに運動能力は異常に低いけど、「ママ」「パパ」とか話すし、人見知りもするし、知能は月齢並みにあるようなのに。崩れかかりそうな心を、私は必死で立て直そうとしていた。
(しっかりしなきゃ)とまっ白な頭で考える。
(きっと、そんなことはないはずだ。この子は普通の子になれる。)
同時に、思い出した。涼歌が生まれた朝のことを。
(たとえ障害があってもいい、生きてさえいてくれれば…!)そう必死で願ったことを。
そうだった。私は、神様と約束したのだ。
たとえ、どんなことになろうと、強く生きなければ。
涼歌が生まれて初めて、「障害」という言葉と真正面から対峙した日だった。
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