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ウィークリーN
第113回●2005年1月16日(日)

足跡11「最大の障壁」


 
 障害児の子育てを手探りで迷いながら行っていた私にとって、最大の障壁が立ちふさがったのは、長女が3歳の時だった。今から15年前のことである。
 
 かねてから3歳になったら長女を子供達の集団に入れたいと思っていた。そこで、引っ越しした自治体の役場に、その旨の電話を入れた。そこには、公立の保育所しかなかったからだ。

「実は、子供を保育所に入れたいのですが。…障害児ですが、大丈夫でしょうか?」
不安 を抱えながら訊いた。担当者はこともなげにこう言った。
「障害児は前例がないですから、入所できませんね」

その一言で終わった。私は呆然とした。難しいかもしれないとは思っていたけれど、「前例がないから、入所できない」わずか3秒の一言で、子供の将来は音を立てて閉ざされてしまったのだ。

生まれて初めて、障害によって大きな障壁を感じた瞬間だった。ショックなどというものではなかった。怒りよりも哀しみの方が大きかった。この先、こうして何度もこの子は「障害児だから駄目」と存在を否定され続けるのだろうか?それまで生きてきた人生の中で、こんなにも悲しい思いをしたことはなかった。私は泣いた。

(健常児だったら受け入れてくれるのに、どうして!?健常児なら、ほっといても育つじゃないか。障害児だからこそ、子供達の社会の中に入れて教育することが必要なのに…。障害児は、教育の機会も均等に与えられないのだろうか)
  今なら、他に障害児のサポートをしてもらえるところもあるだろうが、その頃の郡部では、受け入れてもらえる先は、保育所しかなかったのだ。   
 
  この頃長女は立つこともできなかったが、やっと「はい」「ママ」など、単語を20ほど言えるようになっていたので、今子供たちの集団に入れられれば、すごく伸びることはわかっていたのだが。

  その後も諦めずに役場に働きかけた。主人は診療所に勤務していたので、行政関係の知り合いも多くでき、直接お願いし続けた。半年後には「じゃ、なんとか来年度には入園できるように取りはからいましょう」という口約束がいただけた。本当にホッとした。保育園に入園さえできれば、来年度も引き続き同じ診療所にいてもいいだろう、と転勤願いも出さなかった。ところが、事件は来年度の人事配置も決まった、年明け後に起こった。

 入園も近くに迫った2月頃に突然、役場から1本の電話があり、「やはり現場が渋っているので、入園は見合わせてもらえないか。その代わり、遊びに来るだけなら構わないので」と約束を突然撤回されたのだ。ショックだった。体中の血が逆流し、怒りで一杯になった。怒髪天をつく、と言うがまさにそういう思いだった。

「駄目なら駄目で、一貫して拒否してくれていたら、高知市への転勤願いも出したのに!」この子にとって1年待たされた4歳は、もうギリギリの年齢だった。今、子供達の社会へ入れるのも、すでに遅すぎるほどなのだ。しかしもう、人事配置も決まった後で、転勤もできない。このまま、この子の伸びる芽をむざむざと摘んでしまうつもりだろうか?…絶対にそれは母親として受け入れられなかった。
 
  さすがに温厚な主人も村長さんに「約束と違うので、それなら村を出る」と電話を入れた。村で唯一の医者だったため、村長さんはあわて、結局特例ということで入園できた。

 このやり方には、当然賛否両論あるだろうことは承知している。しかし、 障害児はこうして社会と闘っていかなければ、人並みの権利を手に入れることができないのだ、ということをまざまざと思い知らされた事件だった。障害児の親たちはこうして傷つき、たくましくなって行かざるをえないのだろう。しかし、その後の長女の経過を見れば、やはりこのとき闘うことを選択して良かったと、つくづく思う。
 
  これは障害児の親として、初めて乗り越えた大きな障壁だった。「目的が正しければ人生において、時には正当ではない手を使ってでも、闘いぬくことも必要なのだ」ということを、私はこの時学んだのだった。

 

 
   
 
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