体罰や無視された生徒のことを思うと、心が痛んだ。これが一般企業なら、とっくにクビだったろう。しかし、残念ながらそういう現実は確かにあるのだ…。
ふと5年前、長女が中学3年生の時の苦い経験を思い出した。前回書いた「もう一つのやっかいな問題」というのが実はこれだった。この件を書くのは正直気が重いが、養護学校における重要な問題をはらんでいる。その体験の一端を書いておこう。
若草養護学校は小学部を終えると自動的に中学部に進学する。小学部はクラスの教員全員態勢で担当する。(担当が2週間おきに変わる。)つまり、先生が6人なら6人で対応に当たってくれるのだが、中学部からは1人の先生が1年を通して担当する。とはいえ教科制になっているので、結局いろんな先生に関わってもらうのだ。初めは1人の先生に担当してもらうというのは腰を据えてもらえて、いいことだと思っていた。しかし、それは大変危険なことでもあると気付くことになる。その先生との間で大きなトラブルが発生してしまうと、どうにもならなくなってしまうこともあるのだ。
中2になり、涼歌の様子が少し変わってきた。家に帰ってきてから、泣くことが増えたのだ。初めは体の成長期で、肉体的にずっと車椅子でいることがしんどいのかと思った。でもそれだけでなく、精神的に不安定にもなっていた。小学部では明るく、先生からほめられることはあっても注意されることはなかったのだが、中学部では「これくらい自分でしなさい」と色々な意味で自立を求められ、自尊心とできないこととのギャップで苦しんでいたようだ。
その頃学校では教師が生徒に体罰を行い、緊急保護者会で問題になったこともあった。管理職と現場・保護者がぎくしゃくしているように思われた。そしてそれは、涼歌の担当のA先生(女性)とも同様だった。今までお世話になったたくさんの先生方と違い、どこか違和感を感じていた。たとえば、車いすは涼歌にとってはなくてはならない大切な足代わりだ。そのブレーキを「手ではずしてください」というシールが貼られているにもかかわらず、平気で足でけってはずす。そういうところにどうしてもなじめなかったのだ。しかし養護学校教員としてはあまりにも基本的なことで、注意するのもためらわれた。
それも1年間の辛抱だと思っていた。
その年は夏休みの宿題でも苦しんだ。毎日の日記とリハビリの記録、そして教科の宿題。重度の障害児の宿題は、多くの場合イコール親の宿題になってしまう。涼歌のように自分で字や絵が書けない場合は特にそうだ。特にこの年は身内に不幸が続き、仕事以外でもてんやわんやだった。そのため、国語の教科の宿題が全部仕上がらなかった。
夏休み明け、涼歌は学校から帰って「国語の宿題をやってなくて怒られた」と泣いた。私は先生に電話で説明した。「本人はやりたくてやる気でも、親が多忙でできないこともあるんです。絶対に本人を責めないでください。」と。家庭では、母親1人で、仕事と介護と宿題との戦いを40日間続けるのだ。そういうこともわかって欲しいと望むのは、私のわがままだろうか。
中3になり、またその先生が担当と知り、正直落ち込んだ。大事な時期に、先生との信頼のあるコミュニケーションが取れないのは困る。そこで、以前にも担任だったクラスのB先生に「A先生とは合わなくて困っている。何かあった時には先生が間に入ってください」とお願いした。1学期はそれでうまくいっていた。
2学期の体育祭の日、クラスで「今日の感想は?」と先生が質問し、みんなが発表した。涼歌が「頑張りました」と言うとA先生は、「頑張ったのは自分だけじゃないでしょう。みんな頑張ったでしょう?」と意見の修正をさせる。これは一見正しいが、「みんな頑張った」というのは教師からの視点ではないか。一生徒の「私は頑張った」という感想を、なぜ修正しなければいけないのか?こういうことが日常的に繰り返されているのだろうと感じられ、彼女らしいおおらかさが失われていくのではないかと心配だった。
そして10月、決定的な事件が起きる。涼歌が「A先生がこう言った」ということを私は鵜呑みにし、「どういうことですか」と連絡帳に書いた。ところが事実確認すると、その発言はC先生だったということが判明。涼歌の勘違いだったわけだ。
翌日、私は学校でA先生に「申し訳ありませんでした」と謝罪した。その時のA先生の目はいまだに忘れられない。数分間黙ったままにらみつけ、大人の私でさえ、いたたまれなくなった。時々涼歌が「先生が怖い」という意味が痛いほどよくわかった。
「涼歌が嘘をつくのは、もうわかってることでしょう」と彼女はうんざりしたように言葉を発した。問題のある生徒をうっとうしがっている様子だった。謝罪の言葉も一切受け入れてもらえなかった。(これで信頼関係は完全に崩れた)と感じた。その日の夜、母が来てくれた時に思わず愚痴ってしまった。母は「それは先生にも問題があるね」と言った。
次の日の昼、自宅に学校のA先生からすごい剣幕の電話が入った。学校でA先生が涼歌に「家では何て言ってたの」と聞き出すのでつい、「おばあちゃんが、先生もいかんって言いよった」と口を滑らしてしまったのだ。(「嘘はいけない」と先生からきつく言われたから、そりゃそうだわなぁ。)で、先生は「おばあちゃんのところへ、私のどこがいけないのか、今から聞きに行きますっ!!」とまくしたてるではないか。
しかし本当のことを言うわけにはいかない。母に怒鳴り込まれたりしたら大変だ。なんとか「それは涼歌の勘違いです」となだめるしかなかった。嘘だけど、仕方ない。「そういう意味ではないですよね」とB先生もなだめてくれていた。
こうして、やっと私にも涼歌の不安定な理由がわかった。常に先生に怒られないかとおびえていたのが原因ではと思えた。あの怒り方を見れば、大人だってすくんでしまう。(もちろん、先生からするとまた反論もあるだろうが。)問題はこれによって、完全に担当教師への信頼が崩れてしまったことだ。
高知県の肢体不自由養護学校の場合、マンツーマンで教わる。先生が怖くても、逃げ場はない。健常児のように、先生に反抗するだけのパワーもない。よく「子供を学校に人質に取られている」と冗談で言う親がいるが、それまでそういう考え方は嫌いだった。しかし、初めて、それもわかるような気がした。…そしてこの問題は、より悪化していったのだ。
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