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ウィークリーN
第32回●2003年6月13日(金) 「生と死〜命のはかなさ、せつなさ、いとおしさ 」


今回の文章は、ちょっと重いかもしれません。
実は、以前ここで書かせていただいたHくんの訃報に先日接しました。まだ、高校2年生でした。小学2年生で高知から引っ越して行ったHくんですが、最近は体調が思わしくなかったようです。しかし、長女の同級生の突然の訃報は、本当にショックでした。

養護学校が、普通校と違うところはいっぱいありますが、中でも一番大きなことは、2年に1人くらい生徒が亡くなるのです。長女の学校は小・中・高全体で60人弱ですから、それを思うとすごく高い確率でしょう?普通校では、生徒本人の訃報なんて、あまり聞かないですよね。私自身、小・中・高・大を通じて学生時代に亡くなった同級生は1人もいませんでした。

長女が小学生の時、初めて上級生のお葬式に行きました。その子もかなり障害が重度のお子さんで、病気で亡くなったのです。ひっそりとしたお宅で、遺影の前で手を合わせると、
(Aちゃん、可哀想に。こんなに小さいのに。しかも、ほとんど寝たきりの重度障害で亡くなるなんて。まだ人生これからで、何もしてないのに。)と涙があふれてきました。お焼香をすませ、他のお母さん方とも言葉を交わすのがなんとなくためらわれて、お宅の近くでしばらく呆然として、霊柩車を見送るまで時を過ごしました。

Hくんに捧げる


(Aちゃんは、一体、何のために生まれてきたんだろう?
はたして生まれてきた甲斐は、何かあったんだろうか?)
こう自問自答しているうちに、次第に私の考えは変わり始めました。
私はAちゃんを可哀想、可哀想と思っているけれど、本当にそうなのだろうか?何もできなかった、と思っていたけれど、考えてみたら私とAちゃんと、どの程度の差があるというのだろう?私の方が長く生きているように思っているけれど、沢山のことをしたように思っているけれど、本当にそうなのだろうか?

この長い地球の歴史の上で、人類の出現はほんのわずかで、まして人の一生なんてまばたき程度のものではないのだろうか。私の人生とAちゃんの人生に差があると考えるのは、それは奢り(おごり)というものではないのか?可哀想、というのは無意識であっても上から下に見る見方であり、Aちゃんの人生がどうだったかは、それは本人にしかわからない。体が不自由で言葉もしゃべれなくても、精神(こころ)は誰よりも自由で、あちこち羽ばたいていたのかもしれない。不幸だなんて、勝手に決めつけるのは失礼なのではないだろうか?

考えているうちに、だんだんと「可哀想」という思いは消えていました。Aちゃんは、Aちゃんに与えられた人生を精一杯生き抜いて、空へ帰っていったんだ、私自身も、恥ずかしくないように生きなければならない、と。もう物言わぬAちゃんに学ばせていただきました。

ところが、もっとやるせないニュースがさっき飛び込んできました。ネット仲間と6歳のお嬢さんが一緒に遊んでいた女の子が、お母さんに無理心中をはかられ、短い命を終えてしまったというのです。友人は大変なショックを受けてしまいました。

生きたくても、生きられない命。かたや、生きられるのに母親に奪われる命。本当に、せつない話です。外国で無理心中を図り生き残った日本人の母親は、殺人罪として厳しく罪を問われたということですが、日本人はどうもそういう親に同情する傾向にあるようです。でも、声を大にして言いたい!

子どもは、あなたのものではないのです。神様からのあずかりものだと思います。(さずかり物、という言い方は好きではありません。物ではないのだから。)親は、神様から信頼され子供を預かり、社会に出すまで養育をする使命を与えられているのだと思います。
もしかして今、とても辛い方がいらっしゃるかもしれません。でも、どうぞ負けないでください。あなたはきっと神様から、信頼されているはずですから。

 

 
 
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