この長い地球の歴史の上で、人類の出現はほんのわずかで、まして人の一生なんてまばたき程度のものではないのだろうか。私の人生とAちゃんの人生に差があると考えるのは、それは奢り(おごり)というものではないのか?可哀想、というのは無意識であっても上から下に見る見方であり、Aちゃんの人生がどうだったかは、それは本人にしかわからない。体が不自由で言葉もしゃべれなくても、精神(こころ)は誰よりも自由で、あちこち羽ばたいていたのかもしれない。不幸だなんて、勝手に決めつけるのは失礼なのではないだろうか?
考えているうちに、だんだんと「可哀想」という思いは消えていました。Aちゃんは、Aちゃんに与えられた人生を精一杯生き抜いて、空へ帰っていったんだ、私自身も、恥ずかしくないように生きなければならない、と。もう物言わぬAちゃんに学ばせていただきました。
ところが、もっとやるせないニュースがさっき飛び込んできました。ネット仲間と6歳のお嬢さんが一緒に遊んでいた女の子が、お母さんに無理心中をはかられ、短い命を終えてしまったというのです。友人は大変なショックを受けてしまいました。
生きたくても、生きられない命。かたや、生きられるのに母親に奪われる命。本当に、せつない話です。外国で無理心中を図り生き残った日本人の母親は、殺人罪として厳しく罪を問われたということですが、日本人はどうもそういう親に同情する傾向にあるようです。でも、声を大にして言いたい!