小学生の頃から慣れ親しんできた新聞。そんな新聞に自分の原稿を載せて頂いた機会が何度かありました。
26歳の時に高知新聞に投稿したのが初めてでしたが、新聞に投稿することは社会に向けての発信でもあり、掲載された時には「新聞に認められた」ことが素直に嬉しかったものです。
初めはもちろん、読者の投稿欄からでした。400字程度というキビシイ字数制限がある中で、伝えたいテーマをうまくまとめることはかなり難しいものです。少しでも文字数を減らすため、同じ意味で文字数の少ない言葉への書き換えなどに知恵を絞ったものでした。
しかし後でふり返ると、こうした原稿が知らぬ間に自分史の記録にもなっています。今回初めて調べてみて、13回と思った以上の回数だったことにビックリしました。
・ 離島のハンディ (1986年、高知新聞 「生命は守られているか 私の体験」)
・ 優しく見守っていてね (1988年、朝日新聞 「手紙」欄)
・ せめて「普通」のサービスを (1989年、高知新聞 「声」欄)
・ 保育園で幸せに (1991年、高知新聞 「読者の広場」欄)
・ 障害児の土曜休日 (1994年、朝日新聞「ひととき」欄)
・ 待望の看護職員 知事さんに感謝 (1999年、高知新聞「声」ひろば欄)
・ 吉岡先生こそ本当の教育者 (2000年、朝日新聞 「声」欄)
・ 42歳の大学院受験 (2002年、朝日新聞 「ひととき」欄)
・ 男女がケンカをしない法 (2005年、高知新聞 「月曜随想」欄)
・ コミュニケーション力 (2006年、高知新聞 「月曜随想」欄)
・ 宮古市の子供たちに (2011年、高知新聞 「声」ひろば欄)
・ 届けました (2011年、高知新聞 「声」ひろば欄)
・ 厳しさと優しさのバランス (2014年、高知新聞 「所感雑感」欄)
「離島のハンディ」「優しく見守っていてね」「保育園で幸せに」など、初期に多いのは障害児を育てていた中で生まれてきた思いを綴ったものです。長女が生まれた27年前には、まだ障害のある子どもがいることは表だって言えない時代で、それに対する「おかしい」という反骨の思いがペンを取らせたのでした。障害児育児の真っ最中の当時は社会から取り残されたような思いもあり、新聞は私にとって社会とつながる唯一の窓のようなものでした。
「障害児の土曜休日」は1994年
学校が土曜休日になり、障害児のほとんどが社会での受け皿がなく自宅で過ごすことになったことに対する長女の悲しみを代弁した投稿でした。
「待望の看護職員 知事さんに感謝」は、養護学校に看護職員を配置して欲しいという運動が進まない局面に対し、面談してくださった当時の橋本大二郎知事が「それはやるべきだ」と鶴の一声で、道を開いて下さったことへのお礼でした。
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